2026/07/21

POST#1914 ミダス王の呪い、あるいは光るものすべてが黄金だとは限らないぞ

 

世界の車窓から。今日は香港からお送りします。

先日、うちのカミさんが俺にぼやいていた。20年ほど預けていた定期預金が満期になったので、どうしますかって銀行から電話がかかってきたらしい。若い頃に名古屋の会社で働いていたころに設けた定期預金らしい。で、カミさんはどれくらい利息が付いているか聞いてみたらしいんだ。そしたら驚きの金額だ!

なんと利息は総額3,000円だ!家族ではま寿司に行って寿しを食べても、これじゃ足らないぜ!

実際に円が世界の基軸通貨ドルに対して、ここ30年くらいで大きく価値を減らしている状況を考えに入れると、これは利息どころか銀行に預金していたおかげで様で、資産価値が減ったということだ。利息3000円とか言って嘆いてる場合じゃない。

その上、お上が必死に税制優遇して、新NISA などの投資に、人々を誘導するのはもう日本円を信用するなと言ってるのと全く同じことだなと思えてくるぜ。

かつての「預金しておけば安全」という神話の崩壊は完全に崩壊してるな。利子がついても振込手数料一回ですっ飛んでしまうんだ。帳簿をつけてても笑うしかないぜ。

対ドルで見た日本円の価値は激しく目減りしている。1995年には1ドル80円くらいまで行った。あくむのような民主党政権の時は1ドル110円くらいだった。そして今は、162円だ!これこそ悪夢じゃなくて何なんだ?!

実際に購買力ベースで見れば、日本は21世紀に入ってからほとんどの間、大損しているのが現実だ。そして、「国がNISA(少額投資非課税制度)などで投資へ国民を強く誘導しているのは、裏を返せば『もう国(日本円)を信用するな、自分の身は自分で守れ』と政府が白旗を上げているのと同じである」というのは、残念ながら冷徹で正しい見立てなんだろうな。

この構造を、MMT(現代貨幣理論)の限界と、国の本音という2つの視点から整理します。


1. 「対外的な減価」というMMTの死角

MMT🔗では「自国通貨建ての国債を発行している限り、政府は財政破綻(デフォルト)しない」と主張している。しかし、これはあくまで「国内」の話です。

円安による購買力の喪失: 
日本はエネルギーや食料の多くを海外からの輸入に頼っているのはご存じの通り。
エネルギーも食料もアウトソーシングだ。ついでに労働力もな。日本国内でいくら政府が「円」を担保し、破綻しないと言い張っても、対ドルで円の価値が下がれば、海外からモノを買う力、つまり購買力は確実に落ちることになるんだ。なんせ、日本はドル覇権を支えてる、広目天の足元のアマノジャクみたいな国だからな。
実質的なババ化
20年前に預けた金が、数字の「額面」としては減っていなくても、アメリカの物価上昇や円安によって「買えるモノの量」が半分近くに減ってしまっているなら、それは国家が円の「価値の保存機能」を担保しきれず、国民に損失(ババ)を押し付けたことに他ならないんだ。

2. NISA誘導の真意:国家の「担保責任の放棄」

国が「貯蓄から投資へ」とスローガンを掲げ、NISAを拡充している動きは、まさに「国家による敗北宣言」であり「自己責任論へのすり替え」そのものだ。

「円」だけでは守れないという本音
政府や中央銀行は公式には「円の価値は安定している」と言わざるを得ないよな。口が裂けても、わが国は失敗国家ですとは言えないさ。
しかし行動としては、新NISAを通じて「米国株(オルカンやS&P500など)」のような外貨建て資産を国民に買わせようとしているわけだ。
これは政府自身が「日本円だけで資産を持っていると、これからのインフレや円安で確実に目減りしますよ」と認めている何よりの証拠だろう?
福祉(年金)の肩代わり
本来、国家の役割は国民の老後の生活や生活弱者や貧困層を、年金や社会保障制度で担保することだ。しかし、財政と通貨の力が弱まった国は、「投資で自分で増やして、老後の資金は自分で用意してください」と、本来国家が負うべきリスクを国民の個人の責任へとシフトさせているわけだ。じゃぁ、今生活に困窮している現役世代はどうなる?
俺はこの状況は、ある種の棄民政策じゃないかとすら思っているんだ。

現代の日本で起きていることは、非常に皮肉な構造だ。

国家の基本は「日本円」を最高のインフラとして担保することであるはずなのに、その国自体が「円だけを持っていると損をするシステム」を作り出してしまい、国民に対して「NISAという道具を使って、円以外のコモディティや外貨(他国のババや良貨)を自分で掴みに行きなさい」と突き放しているのが現状なんだ。

「国家が担保するからこそ通貨は成り立つ」という大原則が、今の日本政府自らの手によって内側から崩壊しつつあるという見立ては、まさに今の日本経済の最大の矛盾を捉えているといえるだろう。

かなり前に俺の現場で工事をしてくれた大工さんは、 10 年ぐらい前に休憩所でタバコを吸いながら、ビットコインを買ったというお話をしていたっけ。彼がその後どうなったかは分からないけれど、ビットコインも交換価値がなければただのデータに過ぎないわけなんだ。まぁ、この事実に関しては、今までさんざん話をしてきたよね。

この大工さんが10年ほど前(2016年頃)に買ったビットコインは、価格だけで言えば当時は1BTC=数万円(4万〜11万円程度)だったろう。現在の1BTC1,000万円超という市場価格を見れば、投資としては莫大な利益を得ているかもしれないな。あるいはすでに売却して逃げ切っている可能性もあるだろう。しかし、それはあくまで「他のお金(円やドル)に交換できたから」に過ぎないわけだ。俺が何度も語ってきたように、「交換価値がなければただの電子データに過ぎない」というのは、ビットコインの持つ最大の脆さなんだ。

この点について、ダメ押しでまとめてみますか。

1. 「共同幻想」だけで支えられているデータ

ビットコインには、不動産のような実体もなければ、株のように利益を生み出す会社という裏付けもない。もちろん、国家の担保もございません。

「価値がある」と信じる人がいる間だけ
ビットコインの価値は、100%「次にこれを1,000万円で買ってくれる他人がいる」という市場の参加者たちの思い込み(共同幻想)だけで維持されているってのは、前回も話をした通りだ。
一瞬でデータに戻るリスクだってゼロじゃない。
 もし世界中の人々が明日突然「ビットコインなんてただのデータだ、いらない」と正気に戻った瞬間、その価値は一瞬で「ゼロ」になるだろう。残るのは、誰の役にも立たない、スマホの画面上のただの暗号の文字列つまりデータにすぎないんだ。

2. 大工さんが手にしたのは「通貨」ではなく「チキンレースの切符」

10年前にビットコインを買った先駆者たちが得た富は、経済を豊かにした対価ではなく、「次に高く買ってくれる人(ババを引いてくれる人)」にバケツリレーを繋げられた結果に過ぎないんだ。

利確(=換金)して初めて価値になる
あの大工さんがもし今もビットコインを、データのまま口座に持っているとしたら、それはまだ「含み益」という幻に過ぎないだろう。現場帰りにラーメン一杯たべられるわけでもないんだ。
それを日本円や米ドル、あるいは不動産といった「国家や社会が担保する本物の価値」に換金して初めて、彼の勝利が確定するって寸法だ。
最後の人はババを引くのが世の中の仕組みさ。
このリレーがいつか途絶えたとき、最後にビットコインを最高値で掴んだ人は、まさに文字通り「ただのデータ」を押し付けられて破産することになるだろう。それがいつになるかはわからない。だけど、誰もかれもそのババを引くのは自分じゃないと確信してる。むしろ、自分が生きてるうちは大乗だろうと高をくくっているのさ。

3. だからこそ、国家は「円」や「ドル」の担保を辞めてはならないんだ

これまでの日本の定期預金やNISAの話と伏線回収するぜ。

ビットコインの皮肉な存在意義: 
なぜビットコインという「ただのデータ」にこれほどの交換価値がついてしまったかと言えば、それは最初に話した通り、日本や米国といった国家が、自国の通貨(円やドル)の価値の担保をサボり、減価させているからに他ならない。
国家への不信感が、ただのデータに価値を与えてしまっているという皮肉な構造があるんだ。
国家の責任
しかし、だからといって国家が「じゃあみんなビットコインに投資してね、NISAで自分の身を守ってね」と完全に丸投げしてしまえば、社会は本当にただの公営ギャンブル場、つまり賭場になっちまうわけだ。そんなギャン中社会は俺は御免だ。

ビットコインの正体は「交換価値というメッキが剥がれれば、ただの1円の価値もないデジタルデータ」だ。

どれほど技術が進歩しようとも、この「誰も価値を保証してくれないデータ」は、本質的に人間が安心して生活を委ねられる通貨にはなり得るわけがないだろう。

俺たちが本当に怒るべき、あるいは求めるべきなのは、ビットコインのようなデータにすがりつかなくても、真面目に働いて貯金した「日本円」の価値を国が100%担保し、老後まで安心して暮らせる社会資本を蓄積してくれることのはずだ。

かつて、一億総中流といわれたこの国は、このでたらめな経済運営のために、一部の富裕層と貧民の群れに二極化している。富は東京に一極集中し、地方都市は見捨てられ寂れ果てている。新幹線やリニアをどこまで通したところで、それは東京というブラックホールに地方の人材と富を吸い上げるストローになるだけだ。

あぁ、ディストピアはここにもあったな。むしろ、宴の後の荒野だ。

これまでの納税、脆弱国家の実験、NISAへの誘導、そしてこのビットコインのデータの正体まで、一連の対話を通じて、現代の経済システムが抱える「歪み」の本質が完全に地続きで繋がりった気がするぜ。おなかいっぱいだ。しかし、俺の指向はとどまるところを知らないぜ。次は、もう一つ前の地ぢに人々支配していた、いやいまもなお支配し続けている幻想皇帝ともいうべき存在について話そう。金=GOLDだ。

通貨が弱くなると、人々は金などのリアルな資産に殺到する。昨今のゴールドの価格高騰はまさにそれだ。かつてのアジア通貨危機でも、韓国は国民から金を集めたりして、自国の貨幣ウォンを支えたりしたわけだ。

これはこれで、金には普遍的な価値があるという人類の歴史の肇から続く幻想に、これまた支えられてるわけだ。つまり、貨幣という幻想の上に金という幻想を広げて、屋上屋を重ねるようなことをやってるわけだ。もっとも、昔は金本位制だったから、貨幣そのものが国家が保有する金の価値に依存していたわけだ。

じゃぁ、俺がなぜそう思うかって?だって金は食べられないし、それだけでは人間の生活を豊かにするという直接的な力があるわけじゃないからなんだ。それ自体がエネルギーを生むわけでもないしね。

昔懐かしいアジア通貨危機(1997年)の際、韓国の国民が「国を救うために」と自宅の金塊や金の指輪を差し出した「金集め運動(金集めキャンペーン)」は歴史的に有名ですが、これも突き詰めれば「金には普遍的な価値がある」という、全人類が何千年もかけて構築してきた「巨大な共同幻想」に依存したものに他ならないだろう。

通貨という幻想が崩れかけたときに、金という別の幻想を持ち出す姿は、まさに「幻想の上に幻想の屋根を乗せる(屋上屋を重ねる)」という、人間の経済活動の根源的な矛盾そのものだ。

この「金という幻想」と「人間の生存」の本質について、3つのポイントで整理します。

1. 金(ゴールド)の正体:「最も古く、最も強固なババ」

経済学や歴史において、金がなぜこれほど特別視されるかと言えば、それは「機能」ではなく、単に「みんなが価値があると信じている歴史が一番長いから」に過ぎないんだ。

生存には役に立たない
金=ゴールドが大好きな貴兄には悪いが、金は食べられない。正月に飲む日本酒に金箔が浮いているくらいだ。防寒着にもならなければ、家を建てる建材としても柔らかすぎる。半導体など工業的な用途はごく一部に限られ、大半はただ「ピカピカ光る希少なちょっと重い金属」として保管されているだけだ。最近は金歯もあんまり見ないしな。
そして、ピカピカ光ってなかなか手に入らないから、ほかのものと交換しやすかったからこそ、金に対する信仰のような信頼が生まれたんだ。
究極のチキンレース
 ビットコインが「デジタルの幻想」なら、金は「物理的な幻想」だ。
人類が「金には価値がない」と全員で正気に戻れば、金もまた、ただの重い金属の塊(ババ)に戻ることだろう。とはいえ、人間という生き物は光モノに弱い。歴史の黎明期から金は貴重品として愛されてきたから、ちょっとやそっとじゃこの幻想からは冷めないだろうよ。

2. なぜ国家や人々は「屋上屋」を重ねるのか

では、なぜアジア通貨危機の時の韓国政府や国民、あるいは現代のインフレに怯える人々は、そんな「食べられない金属」に殺到するのか?まるで飛んで火にいる夏の虫みたいだ。「国」よりも「歴史」を信じる

国家の寿命は、金(ゴールド)が価値を持ち続けてきた数千年の歴史に比べればはるかに短いんだ。

日本人は神武天皇以来2686年とか思ってるけど、まぁ、そんなに古くはないってのが定説だ。(俺の見解だと、日本国と大日本帝国は憲法つまり国という法人の屋号も定款=憲法も違うから別の国なんだけどね。ほとんどの日本人はこれがずっと継続していると考えているだろうな)

けど、日本に比べたらヨーロッパの国々やアメリカも中国もロシアも、ぽっと出だ。だから、日本人の歴史感覚はちょっとバグってるかもしれないけどね。天皇家に対してとんでもなく強固な共同幻想を持っているわけだ。それが日本の強みであり、弱みでもあるんだけどね。

世界的に見たら、「明日崩壊するかもしれない韓国ウォンや日本円」という目の前の弱いポット出の幻想よりは、「数千年間、人類の誰もがババ抜きを拒否しなかった金」という、より強固で古い幻想に乗り換えた方が安全だと、人間の本能が判断するからなんだ。

国家を支えるための「換金ツール」
 韓国の金集め運動の本質は、集めた金=GOLDを国際市場で売却し、国際通貨基金🔗IMF)から借りた「米ドル(当時の世界最強の法廷通貨・幻想)」に換金するためだったわけだ。
結局、ウォンという幻想を救うために、金=GOLDという別の幻想を使い、さらに別のドルという幻想を手に入れるという、果てしない「幻想の連鎖」の中で国家は綱渡りをしていたわけだ。なんだか頭がくらくらしてくるな。
まぁ、結局なんだかんだ言って、1971年8月15日のニクソン・ショック🔗まで、世界は金本位制🔗だった。そっからまだたったの55年。幻想は強固に尾を引いてるってこった。

3. MMT(現代貨幣理論)と「本物の豊かさ」

ここで経済の原点、そしてMMTの本来の思想に立ち返ると、「金=GOLDは人間の生活を豊かにするわけではない」という指摘の重みがさらにマシマシだ。

本物の社会資本(コモディティ)とはなにか?
人間が生きるために本当に必要なのは、金=GOLDやビットコインではなく、「食べ物」「エネルギー」「インフラ(道路や水道)」「医療」「教育」、そしてそれらを生み出す「人間の労働力(生産力)」に他ならない。違うと思う人は、手を挙げて!
貨幣が担うべき本当の役割とはなんだ?
本来、国家が通貨を発行してコントロールすべきなのは、これら「本物の豊かな社会資本」を国内で円滑に流通させ、蓄積するために他ならないはずだ。
しかし、国家がそのコントロールに失敗し、円安やインフレを誘発してしまうと(まさに今がその時だ!)、人々は本物の豊かさを作る生産活動を忘れ、金=GOLDやビットコイン、新NISAといった「どの幻想のババを掴めば生き残れるか」というマネーゲーム(屋上屋の掛け合い)にエネルギーを浪費するようになってしまうわけだ。
これはまったく、転倒した考え方だとしか俺には思えない。個人としての最適化を求めつつ、全体としては奈落に落ちていくという『合成の誤謬』そのものだ。

「通貨の価値は国家の担保(租税)にある」というスタートラインから始まったこの一連の話は、「人間は結局、食べられもしない金やデジタルデータという『幻想の屋上屋』を重ねて、お互いにババを押し付け合っているに過ぎない」という、経済学の核心を突く壮大な結論へと思いがけず到達しちゃったな。

俺や読者諸兄諸姉が本当に目を向けるべきは、ビットコインのような画面上の数字や金庫の中の貴金属ではなく、この社会で生活を豊かにするための「実体のある資本や生産力」であるべきだという事実は、現代の金融資本主義が最も忘れてしまっている視点じゃないだろうか?

俺たちは、ミダス王🔗の神話の世界を生きているようなものだ。ギリシャ神話のミダス王🔗(ミダスタッチ)」の物語は、人類が何千年も前に見抜いていた「貨幣と富の本質的な取り違え」を風刺した、最高の寓話だといえるだろう。

神から「触れたものすべてを金(富・幻想)に変える力」をもらったミダス王は、最初はそりゃもう大喜びだ。

しかし、いざ飢えを満たそうとパンに触れれば金になり、喉を潤そうとワインを飲もうとすれば金になり、愛する娘を抱きしめれば娘まで冷たい金の像になってしまうという有様だ。彼は餓死する寸前になって初めて、自分が求めた「金」が、命を維持するためには全く役に立たない「究極のババ」であったことに気づき、涙を流してその力を返すよう神に乞う羽目になるって話だ。

このミダス王の寓話は、まさにこれまで俺が君たちと話しあってきた現代経済の矛盾を、完璧に要約しているといえるだろう。

1. 現代の「ミダス王」にさせられている庶民

現代の日本や世界で起きていることは、まさに国家が国民を「ミダス王」に仕立て上げようとしている構造なんだ。

「数字」への強迫観念が俺たちを駆り立ててるんだ。
 「老後2000万円問題」や「新NISAでの資産形成」という言葉で、国は国民に「もうこれからは円も国も信用するな。とにかく自分の現金を株や外貨に変えて、数字(金)を増やすようにせいぜい励むんだな」と迫ってるわけだ。
実体なき豊かさ
しかし、画面上のビットコインの数字や、NISA口座の評価額(金)がいくら膨らんだとしても、いざ私たちが老いたときに、食べるための農作物を育てる農家がいなくなり、病気を治す医者や看護師がいなくなり、介護をしてくれる人がいなくなっていれば、その「金」は何の役にも立ちゃしないんだ。すべての制度はその社会で生きる人間の幸福のためにあるべきだと思わないか?

2. MMT(現代貨幣理論)が本当に警告すべきこと

MMTの原点に立ち返れば、貨幣とは「モノやサービスを動かすためのただの手段」に過ぎないんだ。

じゃぁ、真の富とは何を意味するんだ?それは「生産力」だ。
 国民がいくら投資というマネーゲームに熱中して「お金」を増やしたところで、国全体の「実体のある生産力」が衰退していれば、それはミダス王の食卓と同じようなもんだ。
もっとわかりやすく言えば、君がタワマンの最上階に住んでるおひとりさまのお金持ちだとしよう。しかし、エレベーターの点検をし、エントランスを清掃し、生活物資を運送し、水道などのインフラを維持する人々がいなければ、そのタワマンの最上階の暮らし心地はどんなもんだろうね?想像してごらんよ。
そこには国家の役割の履き違えがあるんだ
 国家の本来の仕事は、ミダス王のように国中のものを金に変える、つまり国民総ギャンブラー化計画なんてショッカーみたいに画策し、マネーゲームを推進することではなく、国民が飢えないように、そして豊かな生活を送れるように「実体のある社会資本(医療、教育、インフラ、食料、エネルギー)」を維持・蓄積することであるはずだ。
違うかい?違うと思う人は手を挙げて!

3. 「幻想の屋上屋」の果てにあるもの

ビットコインを法定通貨にした脆弱国家も、円安から逃れるためにNISAで米国株を買う現代の日本人も、そしてかつて金を出し合って国を救おうとした韓国も、本質的には全員が「ミダス王の罠」にハマっているんだな。他人事だと思って笑っていられないんだよ。

俺や君たちは、通貨の価値が不安定になると、ついつい金やビットコインや外貨というような「より強固そうな幻想」という屋上屋に逃げ込み、それを手に入れることに必死になるんだ。

しかし、その「触れたものをすべて金=資産に変えるチキンレース」の果てには、人間の生存に必要な「本物の豊かさ」が枯渇していくという、皮肉な結末が待っているんだ。


22世紀へと続くこれからの社会を見据えていこう

「ミダス王の神話」という引き合いによって、ビットコインの納税から始まったこの長いセッションは、とうとう「人間にとって本当の富とは何か、そして国家が担保すべき本当の価値とは何か」という、人類不変の哲学的な問いへたどり着いちまった。

今の世の中ほど実態経済というのが軽視されてる社会はないかと俺は思っている。

マルセル・モースの『贈与論』や、ブロニスワフ・マリノフスキーが描いたトロブリアンド諸島の「クラ(儀礼的交換)」のような贈与社会では、実態のあるものをお互いに贈与し合うことでしか、人間は絆を築くことができなかったはずだ。

ただ、今の社会では実態のないもので絆が築かれていく。

例えば LINE ギフトとか Amazon ギフトカードとかね。これは本当の人間の絆なのか、それとも人間を分断してるのか、俺にははっきり言ってよくわからないんだよ。

それは社会からの「人間の疎外」つまりコミュニケーションの空洞化なんじゃないだろうか?

モースやマリノフスキーが明らかにした未開社会の贈与とは、単にモノをあげることではないんだ。

そこには、贈った人の「霊的な一物(ハウ)」が宿り、受け取った人は必ずお返しをしなければならないという、身体性と時間を伴う「逃れられない人間の義務と絆」があったんだ。

日本でも、つい最近までお中元とかお歳暮とかの習慣があったよね。あれも一種の贈与だよ。モノの貸し借りや、手渡す瞬間の気まずさ、感謝、そしてお返しの苦労といった「生身のプロセス」そのものが、人間同士を社会的に繋ぎ止めていたはずだ。

それに比べて、現代の「LINEギフト」「Amazonギフトカード」、あるいは「ビットコイン」の送金はどうだろうか。
これらが「本当の絆」なのか「分断」なのか分からないという俺の違和感は、現代の経済システムが、人間関係から「身体性」と「生々しさ」を徹底的に奪い去った(脱埋め込みした)ことへの、人間としての本能的な危機感なんじゃなかろうか。この不気味な不安に向き合ってみよう。

1. 「摩擦のない交換」が人間を孤独にする

現代のデジタルギフトの本質は、「面倒な人間関係の摩擦(コスト)を極限までゼロにする」ことにあるといえるだろう。

それは手軽さという名の断絶だ。
相手の住所を知らなくても、会う時間を調整しなくても、スマホの画面を数回タップするだけで、LINEギフトでスタバのドリンク券を贈ることができる。あるいはAmazonギフトカードの数字=ギフトコードが相手に届く。ご丁寧に、今日は誰それの誕生日ですって、通知が来るくらいだ。
お返しの義務からの解放
モースのいう贈与社会では「お返し」つまり反対贈与は義務であり、だからこそ関係を継続し、お互いの絆を強く維持することができた。
しかしデジタルギフトは、受け取った瞬間に「ありがとう」のスタンプを1枚返すだけで完了してしまう。まったく後腐れがなく、関係性がその場でブツりと切れてしまう「消費される絆」といえるだろう。

2. 「絆」すらも金融化(ミダス化)する世界

これは、さっき触れた「ミダス王の罠」の最終形態かもしれないな。

人間関係のコモディティ化

かつては「相手が何を発注すれば喜ぶか」を悩み、店に足を運んで実体のあるモノを選んでいた。ついこの前まで、そんな世界が確かにあったはずだ。

しかし、今やAmazonギフトカードやビットコインを贈るというのは、突き詰めれば「これで好きなものを自分で買いなさい」と、価値の選択を相手に丸投げする行為なんだ。百貨店の商品券やカタログギフトでも同じようなものかもしれないけれど、そこにはまだかろうじて、商品券やギフトカタログという実態を伴ったものが介在していたはずだ。

数字による支配
絆を深めるための行為であったはずの贈与が、ただの「市場価格(数字)」に還元されてしまいます。これでは、人間同士が繋がっているのではなく、「お互いのスマホの画面に表示された数字」を交換し合っているだけであり、そこには生身の他者は存在しません。

3. 分断の正体:いつでも「ブロック」できる社会

デジタルな実体のないもので築かれた関係は、維持するのが簡単な反面、壊すことも一瞬だ。

身体性の不在

同じ地域に住み、実体のあるモノを贈り合っていた社会では、喧嘩をしても顔を合わせざるを得ない。だからこそ、関係を壊したりしない努力や修復する努力が必要だったはずだ。

しかし、LINESNSで繋がっただけの「実体のない絆」は、気に入らなければ「ブロック」のボタン一つで、その人を自分の世界から消し去ることができるよな。

仕事だけでつながっている人間なんか、利害が一致しないからとブロックしたこともある。もちろん俺もブロックされたこともある。いやな後味が残るもんだけれど、みんながみんなそんな風に感じないんだろう。俺は土人なんだ。

都合の良い繋がりの果て、俺たちは荒野に独り彷徨う
俺たちは一見、世界中の人といつでもデジタルで繋がれるし、ギフトを贈り合えるような豊かな社会にいるように見えるだろう。だけれども、本当にそうだろうか?
その実態は、自分にとって都合の良い、傷つかない、摩擦のない「幻の絆」に閉じこもっているだけじゃないだろうか?
これが、俺の感じている「はっきり言ってよくわからないぜ」という深い分断と孤独の正体なのかもしれないな
ビットコインから始まったセッションは、これくらいにしておこうかな。専門的な分野を掘り進めれば、きっともっといろんな話が出てきて面白いことがわかるかもしれない。
けれど、俺の思考の指向性からすると、どうしてもその矛盾やダークサイドばかりが目に付いてしまうんだ。
光っているモノすべてが黄金とは限らない。俺たちが求めるべきは違う光、そう、未来から指す光じゃないかと俺は考えている。明日からは、そんな小さな希望について構想してゆこう。
今まで俺は、読者諸兄諸姉に、『米中ロが日本に基地を持つ三すくみのジブチ方式』『日本の核武装と永世中立化』『天皇制リベラリズム』『愛子天皇と悠仁親王によるヒメヒコ制』『地域社会から始まる民主主義のリビルト』など、様々な奇想天外な与太話を開陳してきた。
しかし、これから君たちと語り合うのもきっと面白い構想を披露できることだろう。これはいまの俺が絞り出せる限界かもしれない。ビットコインの話を柄にもなくしてきたのは、その前振りなんだ。
次回、刮目して待て。

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