| 今日も厭きずにカニでもどうぞ。今日は京都寺町通のかに道楽。どうしてかに料理は皆これなのか? |
俺はいつも仕事の際に、ノースフェイスのヒューズボックス(ほら、高校生とか若い子がみんなしょってる長方形のリュックだよ)のチャックを面倒くさくて開けたまま歩いてるけど、中のものが取られたことは一度もないよ。
そもそもからして、中にはそんなに大事なものも入っていないがね。誰が必要にしてるのかわからないような書類とノートパソコンくらいさ。
京都で仕事をしていた時には、観光で来ている善良な外国人に注意されることしばしばだった。彼らは血相変えて注意してくるんだ。その度に、俺は笑ってこういったものさ。
サンキュー、ノープロブレムだ。日本は平和なんだ。
それは世界の皆さんからすれば、本当に驚くことらしい。何より今の日本の「他者を信頼できる治安の良さ」を象徴する、これ以上ない生々しい実体験になることだろう。
バックパックのチャックを開けたまま歩いていても、中身が無事というのは、海外の主要都市(特にスリが横行するヨーロッパの観光地や、アメリカの地下鉄など)の感覚からすると、「奇跡」を通り越して「都市伝説」と言われるレベルの安全さらしい。大袈裟なと呆れるが、それがグローバルスタンダードだ。世界の定説だ。
つまり、「油断して歩ける」という究極の贅沢なんだ。
世界の大方の国では、カバンのチャックを閉めて前に抱え、手で押さえて歩くのが「最低限のマナーというか自衛」とされている。
チャックが開いているバッグというのは、泥棒からすれば「どうぞ盗んでください」というサインでしかないんだそうだ。じゃあ、チャックの空いてるズボンは?(笑)
ほんの数秒、スマホに目を落とした隙や、後ろからすれ違った瞬間に、財布や貴重品は綺麗に消え去ってしまうだろう。
それに対して、日本社会では「他人のカバンが開いていても、誰も盗もうとしない(むしろ『開いてますよ』と教えてくれる親切さがある)」という、凄まじく高いレベルの「相互信頼(ソーシャルキャピタル)」が機能している。それどころか、誰も彼もがスマートフォンを見つめながら歩いている。
これがアメリカだったら、あっという間にノックアウトされて身ぐるみ剥がされることもあり得るんだ。ウルトラアリエールだ。
さて、ここで考えておきたいのが「盗まれない社会」を維持するコストだ。
日本でスリや置き引きが劇的に少ないのは、もちろん警察の優秀さもあるだろう。が、何よりも「わざわざ他人のものを盗む必要がないという社会のポテンシャルがあり、あるいは『盗むのは恥ずべきことだ』という高い規範意識が全員に共有されているからなんだ
そう、これこそ前回君たちと話し合った豊臣秀吉の刀狩りから始まり、江戸時代の朱子学によって「己を律する」ことを骨の髄まで叩き込まれてきた、歴史の地続きにあるリアリティそのものなんだ。
中国のように、お上がカメラで24時間監視しなくても、市民が「お天道様が見ている」「他人に迷惑をかけてはいけない」という内面的なブレーキを持っているからこそ、俺のノースフェイスのバッグの中身は守られているわけさ。
そして、ここに現実の重みを知らない人々との決定的な断絶がある。フォッサマグナみたいな断絶だ、
もし、海外の「ポリコレの皆さん」が俺のノースフェイスのバックパックのはなしを聞いたら、十中八九「いくらなんでもそりゃ嘘だ、そんな社会があるわけないだろ」と否定するか、「それは単一民族的で閉鎖的な特権社会だから成立しているんだ」といった、別のいちゃもんをつけてくるかもしれない。
しかし、彼らがどう言おうと、「チャックを開けたまま歩いても何も盗まれない」というのは、俺が今生きている日本の「紛れもない現実」なんだ。
なにしろ今日も全開だったしな。
この卑近で平穏な現実のありがたみを知っているからこそ、俺たちは「現実を無視した綺麗な空言」の胡散臭さにすぐ気づくこともできる。
そして日本のアニメが描く「何気ない、普通の高校生たちの日常」に、何百年もの歴史が紡いできた本物のリアリティと価値を感じることができるんだ。
もっと話を掘り下げてみよう。
右派の皆さんがなにを言おうが、既に日本社会は多様な民族構成で成り立ってる。息子の小学校にも、ムスリムの子、日系ブラジル人の子、お母さんがトルコ人と再婚し、ハーフの弟のいる子がいる。
だけど、日本に来た日系ブラジル人やトルコ人、イラク人とかネパール人、タイやミャンマーやフィリピン人とかベトナム人とか、とにかく世界の皆さんは、まぁはじめのうちは、文化の違い(あって当然だ。なきゃ面白くないだろ!)からくる多少のトラブルはある。あったとしても、しかし急速に日本人の文化に馴染んでいく。
そして、それが当たり前だと思えるようになってくんだよね。そしてついには本国に帰りたくないと思うようになるのさ。だってここは、お花畑だからな。
こいつは移民や多文化共生をめぐる議論において、非常に本質的で、現場のリアリティに根ざしたどえりゃあ重要な現実なんだ。
だいたい移民てのは、フランスのように同化を強いられるか、移民集団として社会の1階層を作って隔離されるかだ。いずれにせよ、そこには軋轢と葛藤、排除と衝突がある。
欧米の批評家の一部は「日本の治安の良さは単一民族的(排他的)だから維持できている特権だ」と片付けたがる傾向があるようだ。
しかし、現実は違う。
日系ブラジル人、イラク人、ネパール人、ベトナム人、トルコ人など、異なる文化的背景を持つ人々であっても、日本で暮らすうちに「日本の安全や快適さというリアリティ」を当たり前として受け入れ、その文化に急速に馴染んでいくというのは、日本各地の移民コミュニティで実際に起きている強力な現象だ。
特に「子どもはもう本国に戻せない」という親世代の切実な実感には、日本の社会システムが持つ圧倒的な「包摂力(インクルージョン)」が現れていると見ることができるだろう。なぜ?
まず第一に、「安全と平穏」という、人間にとって本能的な心地よさがあるだろう。
秀吉や家康、綱吉たちが長い歴史をかけて作った「銃がなく、夜中に歩けて、カバンのチャックを開けていても盗まれない社会」の快適さは、人種や国籍に関係なく、すべての人間にとって本能的に「圧倒的に心地よいもの」のはずだ。しかも、言いたいことを言っても、秘密警察にパクられたりすることもない。どこに行ってもAIカメラで監視されてることもない。黒人だからという理由で、拘束されたりすることもない。
本国では常に張り詰めていなければならなかった「防犯の緊張感」から解放され、肩の力を抜いて生きられる心地よさを一度知ってしまうと、人間はわざわざ過酷な環境へと戻りたくなくなるというものだ。
ゴミ問題や宗教慣習上のトラブルや言語の壁があっても、「ここなら命の危険がなく、普通に働いて、普通に暮らせる」という事実は、誰にとっても何よりも強力な日本の魅力なんだ。
そして「子どもを本国に戻せない」という親のリアリティ。
特に日本で生まれ育った外国籍の「子ども世代」にとって、日本のリアリティはそのまま彼らの「日常(アイデンティティ)」になる。
まずは治安のギャップがあるだろう。日本の学校に通い、友達と放課後にのんびり遊び、夜にコンビニに行くのが「普通」になった子どもにとって、銃社会や強盗・スリが日常にある本国の治安環境は、あまりにも危険で適応が難しくなるというもんさ。
そして教育環境と将来設計だ。まず、学校に銃がない、いや、街を歩く誰もが、まず銃を持っていない。
たとえいじめがあっても命の奪い合いにまでは発展しない、とは言わないが、必ずリンチを食らうわけでもない。教育、医療、交通、上下水道などのインフラが整っているという環境は、親からすれば「子どもを安全に育てられる唯一無二の場所」に映るのかもしれない。だからこそ、親たちは「もう本国には戻せない、ここで生きていこう」と決意することになるのさ。
そしてなにより、日本の「社会関係資本(ソーシャルキャピタル)」の強力な同化作用だ。
日本の文化や地域社会には、新しく入ってきた人々を、お説教やポリコレのルールで縛るのではなく、「日々の生活のルール(ゴミ出し、挨拶、マナー)」を通じて、じわじわと日本のリアリティの中に巻き込んでいく独自の同化力がある。ちゃんと挨拶して、ゴミ出しのルールを守れば(日本人でも、守れないやつはゴマンといるさ)、コミュニティに受け入れられる。黒人でも、ムスリムでもだ。
さっきも少し触れたけど、欧米の「多文化主義」てのは、耳には気持ちよく響くけれど、実質は人種ごとにコミュニティを完全に分断(セグリゲーション)させることが多い。結果として治安の悪いスラム(ゲットー)を生み、いつどんなきっかけで暴動が起こるのか、毎日が黒ひげ危機一発状態だ。
一方で日本は、地域社会(自治会や学校など)が「日本の普通の暮らしのルール」を共有することを求めるため、最初は衝突やトラブル(文化摩擦)があっても、次第に外国人住民も「ルールを守る側=日本の日常を維持する側」へと変わっていくという、奇妙な、それでいてプラグマティックな包摂システムがあるように見受けられるのさ。
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海外のポリコレ活動家たちは、日本のアニメに「黒人やラテン系を入れろ」と要求しているようだけど、知らんがな。彼らは「多様な人々が、日本の平穏なリアリティ(ルール)に自ら進んで馴染み、その日常の守り手になっている」という、日本の草の根のリアルな共生など見えてないんだ。
確かに日本もいじめはあるし、差別だってないとは言わない。だけど、これって圧倒的に社会のレベルが高いんじゃないかっていう気がするんだよね。
俺は今まで、いろんなところ、まあ、ユーラシアのエッサウィラから台湾までずっといろんなところを回ったけど、うーん、これに匹敵できるのは台湾ぐらいかなっていう感じだよ。
なぁ、日本社会はほんとうに没落してるのか?
俺たちは惨めな生を空費しているのか?
違うだろ?どうにも腑に落ちないぜ。
なにはともあれ、技術も社会システムも、失われたら二度とはもどならいんだ。
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