2026/08/31

POST#1955 少子化の中でも、ヤンキーの人々は子だくさんだったりする

名古屋だな、これは
さて、しかしこの社会は二極化が進んでいる。

経済格差の話は、耳タコだから今日は一旦措いておこう。けっしてそれが問題じゃないといってるわけではないけどね。

人口の密集する都市では、人々は記号に還元され、社会を構成する使い捨ての部品として消耗されるうちにどんどん高齢化し、結婚適齢期を逃している。その一方で、俺の地べたの肌感覚として、地方の娯楽の少ないエリアに暮らしている土着の『ヤンキー』の人たちは、それこそ18歳か20歳くらいでポンポン子供を産んで、それはそれなりに幸せそうに暮らしている。選挙なんか行ったことも、民主主義もなんて興味も関心もない人たちだ。

その子どもも18か20くらいで子供をもうけ、世代更新のスピードは、都市部に比べて1.5倍くらいのスピードだ。40前で孫がいるという話もざらだ。俺自身は子供を授かったのは47の時だったが、同世代の人から服部君の息子と、うちの孫は同じ年といわれたこともある。とはいえ、この人が特別に子供を設けるのが早かったわけでもないがね。

さて、このいわゆる地方の若者のスタンダードともいうべき、ヤンキーの皆さんをどうやって、良き市民へと昇華し、地方経済を支える勤労者として自活させ、地域社会へと包摂していくのかっていうのが、実は大きな課題じゃないかな?

日本の出生率をけん引しているのは、このクラス=階級の人たちなんだからね。このクラスの人々を、社会にうまいこと組み込んでいかないと、ヤンキー国家になってしまう。

これが地方のリアルな姿だし、都市部の知識人が最も見落としがちな「地べたの生命力」だ。

俺はひそかに、この「18歳くらいでポンポン子供を産み、それなりに幸せそうに暮らしているヤンキー(マイルドヤンキー)の人たち」の存在こそが、実はお上やタワマンの知識人が立てた「経済的去勢のシステム」を根底からひっくり返す、生身の人間たちの最大の防衛線なんじゃないかって考えてる。
まぁ、自分を洗練された賢い存在だと思っている人は、単に彼らをDQN🔗とかB層🔗とか、土人だと考えているかもしれないがね。しかし、彼らの持つ何も考えていないんじゃないかという刹那的ともいうべき楽天性と、強靭な生命力こそ、日本列島という災害の多く厳しい階層構造を持っていた社会で、生き抜いてきたタフな人々の末裔だ。
彼らを「良き市民(つまり、良き納税者、あるいはシステムに従順な記号)」にどう回収していくか、という課題の裏には、近代社会の強烈な矛盾が隠されています。
まず、なぜ彼らは「去勢」されずに子供を産めるのか?
伝統的な経済理論や「おひとりさま論」の枠組みのなかでは、「お金がなければ結婚も子育てもできない。だからそれは諦めるべきだ、諦めてこの自立を混ざすことが正解だ」ということになるだろう。もっともだ。しかし、彼らはその「正論」の枠外で生きている。
大体、本屋なんかめったにないような農村地帯や工業地帯で彼らは生きている。最悪、そういったところで先輩後輩という属人的なつながりをどを頼って何らかの仕事にありつければ、なんとかなるだろうくらいに考えている。
もっと現実に即して言うなら、彼らは「脳(理念)」ではなく「身体(本能)」で生きているんだ。
彼らは「将来の教育費のシミュレーション」や「キャリアプラン」といった、お上が作った記号の計算に縛られちゃいない。
教育費?学校なんてとりあえず行っとけば近所のツレと遊べるから行く、くらいの感覚だ。そして、そんな環境の中で、学業という条件付けからオミットされた者たちが集団を形成し、その集団内で少年少女は急速に性的に早熟していく。
若者が、その思春期の性衝動を抑えることなく即行動に移すのは当然のことだ。ある意味健全なことだ。まぁ、俺自身もヤンキーではなかったが、若い頃は似たようなものだったからわかる。
彼らは「好きだから一緒にいる、子供ができたから育てる」という、圧倒的な身体性と生命力で動いている。で、その一方で、愛想が尽きたから別れる。実家に戻り、母系制の家族構造を形成してゆくというパターンをたどることになることもしばしばだ。
また、先にも少し触れたけど、彼らには独自の「セーフティネット」がある。都会の孤立した「おひとりさま」と違い、彼らの周りには地元の友人、親、親戚といった「地べたの共同体」が残っているんだ。お金はなくても、お互いに子供を預け合ったり、実家に身を寄せたりする「相互扶助(人類学的・民族学的な生存戦略)」がゆるく機能しているんだ。おかげさまで、お上の福祉制度に頼らずとも、シングルマザーになっても子供を育て上げることができるわけだ。
お上が考える「良き市民への回収」という傲慢
お上や知識人から見れば、彼らは「計画性がなく、学歴が低く、まともな労働市場(ホワイトカラー)に適応していない『問題のある存在』」に見えるかもしれないな。そのため、「教育を施し、洗練された『良き市民』に育成(回収)しなければならない」という発想に陥る傾向がある。しかし、ここに決定的な罠があるわけだ。
彼らを無理やりお上の言う「良き市民」のシステムに回収しようとすると、何が起きるか、考えてみよう。
まず挙げるべきは、生命力の去勢だ。
「もっと勉強して、いい大学に行って、まっとうな職に就きなさい。子供はそれからだ」と、都会的な価値観を押し付けた瞬間、彼らもまた「計算(リスクヘッジ)の呪い」にかかり、「おひとりさま」や「経済的去勢」の側へ引きずり込まれ、子供を産まなくなるだろう。
そして、もっと具合の悪いことに、そうしたからといって、割のいい仕事に就けるかどうか、誰にも分らないことだ。これは、新自由主義下のイギリスの労働党ブレア政権やアメリカ合衆国のクリントン政権が主張したことだ。
大学に行きなさい。学位を取りなさい。そうすれば、君の労働市場でも価値は上昇し、より良い生活を送ることができる。
しかし、現実はそううまくはいかなかったのは、その後の歴史を見れば明らかでしょう?
アメリカもイギリスも、挫折した人々はポピュリズムに走り、ブレクジットやドナルド・トランプ大統領を生み出したわけだ。
イギリスやアメリカで製造業が衰退したのは、こういった地べたのワーキングクラスが崩壊したからだ。
イギリスの労働者階級の不良少年が、熟練工へと成長し労働者階級の一員として社会に吸収されていく過程をリサーチした古典的名著ポール・ウィリス🔗の『ハマータウンの野郎ども🔗』が活写していたような、荒々しくも逞しい労働者の世界は、アメリカやイギリスにはもう見られない。それが、これらの国が工業生産力を大きく落とし、金融やITにその経済の命運を託すことになった遠因だ。
結果として、社会にとって具合の悪いことが起こった。インフラの担い手の消滅だ。
この社会を維持するのに欠かせない、「ゴミ回収、エレベーター点検、道路の維持」といった、社会をリアルに支える身体労働を担っているのは、まさにこうした地べたのバイタリティを持った若者やその成れの果てのおっさんたちだ。
彼らを全員を「記号を扱うホワイトカラー(良き市民)」に回収してしまえば、社会の物理的基盤はそれこそ瞬時に崩壊するだろう。俺が行っていることがわかるだろうか?そして、もしそうなったとしたら、日本の製造業もインフラも技術継承ができなくなり、デッドエンドだ。
また、都合が悪いことに、生易しい環境や、パワーのない指導では、彼らからその不良性はなかなか抜けない。厳しい労働環境と絶対的な人間関係の存在する職場で陶冶されることがなければ、容易に社会からドロップアウトしてしまう。水は低きに流れ、人は易きに流れるんだ。
じゃ、本当の「課題」はどこにあるのさ?
これは難しいけど、本当の課題は、彼らをシステムに「回収」することではなく、彼らの持つ「地べたの生命力」を、お上がその搾取システム(低賃金労働)によって食い潰さないようにすることにあると、俺は考える
彼らは一見幸せそうに暮らしているが、その労働環境は「非正規雇用」や「過酷な肉体労働」であることが多く、お上がインフラ労働を買い叩いているせいで、常に経済的な困窮と隣り合わせだ。また、飲酒、喫煙、ギャンブル、放蕩など、彼らへの誘惑は多い。
俺が昔一緒に働いていた連中も、日雇いのような仕事で金を手にすると、すぐにキャバクラに行って散財してしまうやつがごろごろいた。そしてその金は、ヤンキーギャルの手に渡る。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
ちなみに、少し脱線するが、男の日雇い仕事と女の風俗嬢というのは、いずれも麻薬のような仕事だ。即金で金が入り、資本はいらない。そして、日雇いで得た流動性の高い金は、まさに金は天下の周りモノといった風情で、すぐに享楽的な消費へと流れていくことになる。
ヘラクレイトスも言っていたぜ。『万物は流転する』と。
だからこそ、ここで「まず労働者の賃金を上げること」が重要になってくる。
彼らに遊ぶ金を持たせろというのではないんだ。まぁ、遊んだところで個人の自由だけど。しかし、過酷な労働と不安定な家庭環境からの現実逃避としての、享楽的な支出を減らして、その生活を安定させるのは、まずは金銭的に十分なものを与える必要があるんだ。それはやりがい搾取でなく、金銭的なインセンティブという好子を与えることなんだ。
彼らを上から目線で「教育」するのではなく、彼らが担っている地べたの労働(インフラ維持など)に対して、お上が、或いは資本サイドが「まっとうな、労苦に見合った給料」を払うこと。それさえすれば、彼らは「ヤンキー的な生命力」を保ったまま、社会を物理的に支え、次の世代を育て続ける「最強の市民」であり続けるだろう。
何も、大学卒のホワイトカラーに押し込める必要なんて微塵もないんだ。

「女王蟻と働き蟻」の比喩で言えば、彼らは「お上の作った『働き蟻の去勢ルール』を、野生の本能と地元の絆でぶち破っている、規格外の人間たち」だ。
社会が完全にアリの巣化して滅びないための最後の希望が、実はこの「地べたのヤンキー的な身体性」にあるという皮肉。とはいえ、俺は彼らを必要以上にありがたがったり、賞賛するつもりもない。その奔放な生命力は往々にしてネグレクトを産み、精神的に成熟しないままに親になることによって生じるいら立ちを原因とする虐待とかは日常茶飯事だからね。
そして、そうやって育てられた子どもたちは、大人になったとき、周囲に大人のロールモデルがないために、往々にして、ネグレクトや虐待といった暴力が世代間をまたいで再生産されてく状況にある
まったくうんざりだ。
これらは決して美化や賞賛で済ませてはいけない、暴力と貧困が世代を超えて連鎖(再生産)していくという、もう一つの「地べたの暗黒面」だ。剥き出しのフォースの世界だ。
生命力があるように見えるそのコミュニティの内側では、文学や人類学が描いてきた人間の「醜さ」や「業」が、「ネグレクト」「児童虐待」「家庭内暴力(DV)」という最悪の形で牙を剥くことがしばしばだ。
暴力の再生産という「負のオペラント条件づけ」
先にも上げたけれど、行動分析学の視点から見ると、家庭内における虐待やネグレクトは、「親から受けた嫌悪刺激(暴力や無視)を、今度は自分が子供に対して学習した行動(モデリング)として出力してしまう」という、最悪の循環(負の条件づけ)の中にあるんだ。
仕方ない、それしかお手本がなかったんだからな。
お上が「児童虐待防止法」という法律(ルール)をどれだけ強化し、綺麗な理念を語っても、そのコミュニティの閉鎖性と「日常茶飯事化=感性の麻痺」した環境の中では、法の抑止力という『弱化』は全く歯止めになりゃしないだろう。残念だがそれが現実だ。
見つからなければ(つまり、通報されなければ)罪にならないという庶民の心理が、ここでは「子供の命や尊厳を削り取る隠蔽装置」として機能してしまうんだ。この点でも、学校の教師や保育園の先生に、もっと資金を注ぎ込んで、子どもたちのセイフティーネットを構築するべきだと俺は考える。
そして、「良き市民への回収」が破綻する理由
さっき俺が「彼らを社会にどうやって回収していくかが課題」といった背景には、まさにこの「放置すれば社会全体の治安や人権が底底から崩壊していく」という強い危機感がある。
そこに踏み込むのは、本来行政や福祉の仕事だろう。しかし、お上(行政や福祉)の行う「回収」のアプローチは、ここでも完全に空回りしている。
まず、記号的な行政対応だ。
児童相談所や福祉の現場は常に人手不足で、人間を「処理すべきケース番号(記号)」としてしか扱えない。表面的な「家庭訪問」や「指導」という形だけのルールを適用しても、地べたに根を張ったセックスアンドバイオレンスなカルチャーを根本から変えることは不可能だ。
そして孤立は加速してゆく。
無理に介入して家族をバラバラに解体(つまり行政システムによる隔離)すると、独自のセーフティネット(地元の絆)すらも失われ、今度は子供たちが「孤立したスラムの単身者」として、新たな格差と経済的去勢のサイクルへ放り込まれることになるだろう。しかし、そこで引き離してゆかないと、子どもの命そのものが危ういという局面も往々にして訪れる。これは、しばしば俺たちが報道で目にすることだ。
そして俺たちの前には「去勢された世界」と「暴力の荒野」の二択という素晴らしい世界が広がっている。くそ!
現代社会が直面している本当のディストピアは、クリーンな管理社会(タワマン側)が完成する一方で、その外側には「法律も言葉も通じない、暴力とネグレクトが再生産される荒野(スラム側)」が明確に分離し、二極化していくという頭を抱えるような現実だ。
タワマン側(女王蟻)
経済的に豊かだが、過剰なコンプライアンスと「おひとりさま論」で静かに去勢され、子供が消えていく世界。
スラム側(働き蟻の巣)
ポンポン子供は生まれるが、賃金は買い叩かれ、教育も届かず、虐待と暴力が日常茶飯事として連鎖していく世界。
「ヤンキーの生命力」を手放しで賞賛せず、そこに潜む「暴力の再生産」というグロテスクな実態を冷徹に見据える俺のひねくれた視線は、この社会が抱える歪みがどれほど深く、一筋縄ではいかないかを、君たちに明確に示していることだろう。
この前門の狼、後門の虎のような蟻の戸渡り状態を、うまく均衡させるには社会の経済的な格差を縮小させていくほか、俺には出口が見えない。
そう、衣食足りて、初めて礼節を知るだ。風俗を規制しろとかいう前に、まずはそこだ。

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