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こいつをインストールしたことで秦は中国を統一し、今日に続く中国の全体主義、専制主義の糸口をつかんだということなんだ。カール・ポパー🔗が聞いたら頭を抱えるさ。
エマニュエル・トッドの『世界の多様性』における核心的理論、すなわち「共同体家族(共同居住、兄弟一律平等の遺産相続、強い親権、内婚傾向)」というシステムが持つ「高い権威主義(全体主義)と平等の両立」のパワーを、秦の穆公🔗が西戎🔗・スキタイ🔗のルートから中華世界へと持ち込んだ――。この視点によって、中国史が持つ「なぜあれほど苛烈な全体主義国家(秦)が生まれ、それが今日の中国(共産党体制・専制主義)にまで2000年以上脈々と受け継がれているのか」という最大の謎の底流が一気に繋がるんだ。まさに一気通貫だ。
トッドの家族構造論を基盤に、この極めて本質的な結論をさらに立体的に補強・整理するかな。
1. 「共同体家族」というシステムが持つ恐るべき国家統治力
トッドの理論において、ロシア人や中国人=漢民族のベースにある「共同体家族」は、近代において「共産主義(全体主義・強権的な国家管理)」を非常に受け入れやすい土壌として定義されているんだ。なぜかって?
中原(夏殷周)の「直系家族」と西方の「共同体家族(遊牧民的システム)」
長子が家督を継ぎ、本家と分家の不平等な階層(宗法・身分制)を固定化する『直系家族システム』。このシステムでは、個々の「家」の独立性が高く、国家が一元管理しようとしても、強固な親族ネットワーク(つまり氏族・貴族)が抵抗勢力となるわけだ。もっと言うと国家に対するバッファーになるんだよ。
一方で共同体家族はどうなのか。このシステムでは親の権威は絶対(強権)なんだけど、兄弟間は「一律平等」なんだ。だから社会のシステムとしても、貴族の血統のような「縦の特権階級」を認めず、全員をフラットな兵卒・臣民として扱う方に流れていくんだ。
ざっくり言えば、将棋の駒の直系家族とどれも同じ扱いの碁石の違いみたいなもんだ。
秦は、穆公が西戎からこのエッセンス、つまり共同体家族的なマインドセットを注入したことで、中原の国々のような「貴族の既得権益」に縛られない、「絶対的なトップ(君主)と、その下で一律平等に管理される兵民(国家=疑似的な巨大共同体家族)」というシステムへ移行する基礎を得たという構図が描けるわけだ。
2. 商鞅🔗の改革とは「国家による共同体家族のシステム化」だった
穆公から約250年後、秦で商鞅🔗が無理くり断行した「商鞅の改革」は、まさにこのトッドの言う共同体家族の価値観を、国家法(OS)として全土に強制インストールする作業脱兎という算段だ。もちろん、この極端な政策を人々が受け入れたのは、穆公によって秦に移入された西戎経由のスキタイ的な社会構造があってのことなのはいうまでもないよ。
大家族(直系的な親族)の解体と平民化(分異の法)
商鞅は、1つの家に複数の大人の男子が同居して自立しない場合、税金を2倍するという無茶苦茶な政策を国民に押し付けたんだ。これにより、中原的な「一族の固まり(直系家族の巣窟)」を徹底的に破壊し、すべての人間を国家の前に「一律平等な核家族=個人」にバラしてしまったんだ。つまり父親の果たしていた役割を国家に肩代わりさせるようなもんだね。
軍功授爵制(平等の徹底)
どれほど名門の生まれの直系家族の長男であっても、戦争で敵の首を取らなければ奴隷に落とされ、逆にどれほど身分が低くても、成果を上げれば爵位がもらえるという、極端な能力主義社会を商鞅は設計したんだ。このシステムの持つ「トップの絶対的な権威(法・君主)」の下で、「すべての臣民はスタートラインにおいて平等である」という強烈な平等のダイナミズムこそ、秦の共同体家族システムの持つ最大の爆発力なんだよね。
中原の諸侯が「直系家族」のイデオロギー、つまり儒教🔗の祖先崇拝、身分の秩序、礼法で国をコーティングしていたのに対し、秦は「共同体家族・遊牧民」のリアリズム(法家、軍功、一律管理)で国をサイボーグ化したわけだ。
だからこそ、秦は他の6カ国を物量と組織力で圧倒し、始皇帝🔗の元で天下を統一できたわけだ。
3. 今日まで続く「中国の専制主義」の直系ルート
そして、この時に秦が完成させ、漢以降の王朝が(表面上は儒教で飾り立てながらも)裏の統治システムとして採用し続けた「外儒内法(表面は儒教、中身は法家)」の構造こそが、現代の中国の全体主義へと直結しているんだ。
歴史ってのは、侮れないもんなんだぜ。
トッドが現代の中国(共産主義・専制主義)の権威主義構造のルーツを漢民族の共同体家族の基盤に求めたように、その「家族システムの政治的・国家的一元化」を歴史上初めて成し遂げたのが秦だったという事さ。そして、その最初の遺伝子を西戎から持ってきたのが穆公だった、という筋道は自信をもって読者諸兄諸姉にお送りするよ。
そして、その閉塞感を打ち破るためにスキタイ起源の西方の風(共同体家族の原形)を取り込んで「始皇帝の専制国家」を誕生させ、それが今日の中国にまで至る――。
この歴史のグランドデザイン(大局観)は、東洋史の点と点がトッドの人間社会学という補助線によって一本の巨大な線に繋がる、知的な興奮に満ちた、なかなか面白い仮設だと思うよ。覚えておいて損はないぜ。
さて、問題はこのスキタイ人だ。
スキタイ人は、紀元前8世紀〜紀元前3世紀頃に黒海北岸の南ロシア草原で活動した、世界最古の遊牧騎馬民族だ。 イラン系民族🔗に属し、高度な騎馬技術と優れた金属器文化 を持ってユーラシア大陸の広範な歴史に決定的な影響を与えたとされている。
その概要と、後世や周辺文明に与えた文化的影響について整理してしてみよう。
1. スキタイ人の主な特徴
遊牧騎馬国家の先駆者で独自の戦闘風習を持つシルクロードの仲介者
もともと黒海🔗付近に住んでいたと考えられてるスキタイ人は、西アジアのヒッタイトから鉄器の製造技術を学び、優れた馬具や武器を開発した。けれど彼らは遊牧民だったので、神殿などの永続的な建物は建てず、移動しながら暮らしていたわけだ。
彼らの精強さと独自の戦闘風習は、ギリシャの歴史家ヘロドトス🔗の著書『歴史🔗』に詳しく記録されている。まぁ、この人は話を盛る傾向にあるから、眉唾物も山ほどあるんだけどね。スキタイ人は戦闘で倒した敵の血を飲む、頭皮や人皮を剥ぎ取って馬具や矢筒の装飾にするといった苛烈な戦士文化を持っていたという。まるで敵を家畜か獲物かなんかのように思っていたんだろうな。
スキタイ人は定住生活はしなかったものの、その移動範囲は広く、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網の仲介人として働き、東西の文化交流を促進したとされているんだ。
2. 周辺と後世への文化的影響
スキタイ美術(動物意匠)の拡散
スキタイ文化の最も顕著な遺産は、金や青銅で作られた金属工芸品に見られる「動物文様(動物意匠)」だ。
馬、鹿、猛禽類、ライオン、豹などの動物が、武器や馬具、鏡などの限られたスペースにデフォルメされて躍動的に描かれていた。この辺のモチーフは、今も中央アジアの人々の好むところだ。
この美術様式は東方にも伝わり、西戎や北狄、そして漢代にモンゴル高原で台頭する匈奴(きょうど)などの遊牧民族に受け継がれることになり、彼らを介してさらには戦国時代〜漢代の古代中国美術にも影響を与えた。
彼らスキタイ人のの残した膨大な金製品は、ロシアのエルミタージュ美術館などに多数収蔵されているんだそうだ。何しろ中央アジアは近代以降ロシア=ソビエト連邦の草刈り場だったからな。
ユーラシア全体の「騎馬文化」の基盤
スキタイが確立した「轡(くつわ)」や「鐙(あぶみ)」の原型となる馬具、軽快な複合弓、乗馬に適したズボン(衣服)は、それまでの定住農耕社会の戦術や文化を劇的に変えたんだ。趙の武霊王🔗の話は昨日もしただろう。まさにあれだ。胡服騎乗というスタイルだ。
西アジアやヨーロッパ、東アジアの諸民族がスキタイの騎馬戦術を取り入れたことで、世界史に「遊牧民 vs 農耕民」という構図が生まれ、ユーラシア規模でのダイナミックな民族移動や国家の興亡が促されていくことになったわけだ。
ギリシャ文明との融合(グレコ・スキタイ様式)
さらに面白いのは、黒海沿岸に進出し植民地を築いていた古代ギリシャ人との交易を通じて、双方の文化が融合するという局面が生まれたんだ。
ギリシャの優れた職人がスキタイの王侯貴族のために、スキタイ人の日常生活や衣服のディテールを刻んだ見事な金細工を制作したりしてたんだ。これにより、文字を持たなかったスキタイ人のリアルな姿が現代に伝わることになったというわけさ。また、さっきも挙げたヘロドトスのような歴史家や博物学者は、彼らに関する伝聞を聞きつけると、ギリシャ語文献にせっせと記録したんだ。
スキタイ人そのものは紀元後に東ゴート人🔗などによって滅ぼされてしまうんだが、彼らが切り開いた「遊牧国家」というスタイルと「東西を繋ぐネットワーク」は、その後のモンゴル帝国🔗などに至る遊牧民の歴史の華々しい成功を伴うプロトタイプになったのは言うまでもないな。
スキタイの巨大な墓「クルガン🔗」
スキタイの王や貴族は、「クルガン」と呼ばれる巨大な盛り土(土を高く積み上げたお墓)に葬られた。どこまでも続く草原の中にぽつんと現れる巨大な丘のような墳墓で、日本の円墳と外見が非常によく似ているという。
そして、しばしばそのクルガンの頂上や周囲に埴輪の代わりに置かれたものは「石人(せきじん)」と呼ばれる、武器を持った戦士の姿を粗削りに彫った不気味な石像が立てられていた。
スキタイのクルガンからは、王の権力を示す黄金の冠や、馬具、武器、職人が作った工芸品が大量に出土する。遥か後世の日本の古墳(特に5世紀以降の古墳時代中期・後期)からも、乗馬文化の伝来とともに、スキタイのものと酷似したデザインの「馬具」や「鉄製の武器」が大量に見つかっているのも興味深いところだ。
またスキタイの墓には、生前の王が愛した「本物の馬」が何頭も生贄(いけにえ)として一緒に埋められていたんだ。馬の殉葬だ。日本でも古墳の周囲に「馬の形をした埴輪(馬形埴輪)」をたくさん並べてあったようなんだが、その影響を感じるぜ。
本物の馬を埋めるか、身代わりの焼き物(埴輪)を並べるかの違いはありますが、根底にある「馬を重視する文化」は共通していたとみていいだろう。つまりスキタイが発展させた騎馬文化や動物のデザインは、何百年もかけてアジア大陸を東へ伝わっていき、それが朝鮮半島を経由して日本に伝わったてことだ。ご苦労様だな。そしてそれが日本の古墳文化(特に甲冑や馬具のデザイン)に大きな影響を与えたと考えられているんだそうだ。
さらにスキタイの王が亡くなった際に行われた「殉死🔗(じゅんし・殉葬)」の儀式は、世界史の中でも特に大規模で凄惨なものとして知られている。これが凄まじいの一言に尽きるんだ。
ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録や、実際の考古学的な発掘調査から明らかになっている、スキタイの衝撃的な殉死の全貌を読み解いてみると、こんな途轍もない事実が浮かび上がってくる。
1. 王の死の直後に行われる「第1段階」の殉死
王が亡くなると、遺体は防腐処理(内臓を取り出して香料を詰め、ワックスで固める)を施され、領内を40日間巡回したあとに巨大な墓(クルガン)へ運ばれたそうだ。そこでまず、以下の人や動物が一緒に埋められたんだ。
王の身の回りを世話した人々
王のお気に入りの側室(妃)、酌人(お酒を注ぐ係)、料理人、馬夫、侍従、伝令使などが、王が死後の世界でも困らないようにと絞殺されて一緒に埋葬されたそうだ。凄まじいな。
それに加えて王が愛用した黄金の器や武器はもちろん、選りすぐりの名馬たちが何頭も殺され、王の遺体のそばに並べられたそうだ。
やれやれ、あの世には何も持っていけやしないというのに。とんでもないな。けど、それで終わりじゃないんだ。
2. 1年後に行われる「第2段階」の恐ろしい儀式
スキタイの殉死が特に異様なのは、葬儀から「1年後」に再び大規模な儀式が行われる点だ。何事もセンセーショナルに盛る傾向のあるヘロドトスは次のように書き残しているぜ。
王に仕えていた自由民の若者50人と、最高級の馬50頭が選ばれ、すべて絞殺さた。
そして殺した馬の腹を裂いて内臓を抜き、藁(わら)を詰めて棒で支え、地面に立たせたんだ。趣味がいいにもほどがあるぜ。さらに、殺した50人の若者の遺体にも背骨に沿って木の棒を突き刺し、その馬の背に乗せたんだとさ!まさに「動く死体の騎兵隊」の設置だ。ゾンビ・トルーパーズってところだな!
この「死んだ馬にまたがる死んだ若者」の死体というか呪物というかを50体、巨大な墓(クルガン)の周囲を取り囲むようにぐるりと配置したという。
要は死後の世界でも王の墓を永遠に守る「幽霊の騎兵隊」を作ったってことだ。冗談じゃないぜ。さすがに話を持ってるだろうヘロドトス!
3. 実際の考古学的な証拠
長年、ヘロドトスのこの記述は「ヘロドトスの十八番、大げさな作り話だろう」と思われていたんだ。それが普通だよな。なんせインド人の精液は黒いとかありえないような話で読者を掴む天才ヘロドトスだ。誰もがまた担がれてると思ってたのさ。
しかし、19世紀以降に南ロシアやシベリアのクルガン(パジリク古墳群など)が発掘されると、記述を裏付ける証拠が次々と見つかっちまったからさぁ大変!
中には永久凍土のおかげで、当時の馬の遺体が皮膚や毛並みを残したまま、何十頭も生々しい姿で発見されたものすらあった。
その馬の頭骨には、儀式で一撃で仕留められたことを示す斧の打撃痕がくっきりと残っていたそうだ。
そして王の衣服や黄金の宝飾品とともに、多数の男女の遺体が同時に埋められている様子も確認されているんだ。ヘロドトス、疑ってすまん!
何でこんな酷いことをする必要があったのか?
それは文字を持たない遊牧民だったからこそ、王の権力の絶対的な強さを「命を捧げさせること」で周囲の部族に見せつける必要があったというように推測されているわけだ。
俺はこの文化が、西戎を通じて秦の国に伝わり、穆公の殉死 177 人という話に、繋がっていったんだと考えているんだ。秦の穆公が亡くなった際、有能な臣下を含めて「177人」が殉死したという『史記』の有名なエピソードだ。このおかげ様で、秦は一時国力がガタっと衰えることになるくらいだ。本末転倒なトホホさだ。さらに俺の見立てでは、秦の始皇帝の兵馬俑なんかもこの思想の延長に連なってることは間違いない。
1. 秦の穆公と「177人の殉死」
紀元前621年、秦を強国へと押し上げた穆公が亡くなった際、177人もの人々が殉死させられた。
この中には、子車三兄弟(奄息・仲行・鍼虎)という、秦を支えた極めて優秀な良臣たちも含まれていました。まさに
秦の領民たちはこの優秀なリーダーたちの死を深く悲しみ、その怨嗟と哀悼の気持ちが、中国最古の詩集『詩経』のなかの「黄鳥(こうちょう)」という詩に歌い継がれることになったほどだ。
交交黄鳥 止于棘 交交たる黄鳥 棘に止まる
誰従穆公 子車奄息 誰が穆公に従う 子車奄息
維此奄息 百夫之特 これこの奄息は 百夫の特なり
臨其穴 惴惴其慄 その穴に臨み 惴惴としてそれ慄る
彼蒼者天 殲我良人 かの蒼なる天 我が良人を殲す
如可贖兮 人百其身 もし贖うべくんば 人はその身を百にせむ
交交黄鳥 止于桑 交交たる黄鳥 桑に止まる
誰従穆公 子車仲行 誰が穆公に従う 子車仲行
維此仲行 百夫之防 これこの仲行は 百夫の防なり
臨其穴 惴惴其慄 その穴に臨み 惴惴としてそれ慄る
彼蒼者天 殲我良人 かの蒼なる天 我が良人を殲す
如可贖兮 人百其身 もし贖うべくんば 人はその身を百にせむ
交交黃鳥 止于楚 交交たる黄鳥 楚に止まる
誰従穆公 子車鍼虎 誰が穆公に従う 子車鍼虎
維此鍼虎 百夫之禦 これこの鍼虎は 百夫の禦なり
臨其穴 惴惴其慄 その穴に臨み 惴惴としてそれ慄る
彼蒼者天 殲我良人 かの蒼なる天 我が良人を殲す
如可贖兮 人百其身 もし贖うべくんば 人はその身を百にせむ
如何に西戎経由で共同体家族の文化を受け入れていた秦の人々にとっても、それは前代未聞の衝撃的な悲劇だったということだろう。碩学白川静🔗先生によれば、穆公の半世紀ほど前の武公🔗の死に際しても66人の殉死が行われたという。しかし、急速にこの習慣が廃れていったこの時期に、177人もの殉死が行われたことは、やはり西戎経由で秦の社会に埋め込まれたスキタイ文化の影響があったんだと思う。
2. 「西戎」を通じたスキタイ文化の流入
もともと中国の殷の時代には、王の墓に姜族などの奴隷が生き埋めにされることはあった。しかし、春秋時代の当時の中国で、中原の国々が「野蛮な旧習」としてやめつつあった殉死が、秦の国でこれほど大規模に行われたのはなぜか?それはあなた、もうお分かりですね。ここにもスキタイ(北方の遊牧騎馬民族文化)との繋がりがあるんざます。その辺のことについては、君たちと散々語り合ってきたから、もう十分だろう。くどい男は嫌われるのさ。
さて、もう一度スキタイ人の世界に戻ろうか?
スキタイの人々のDNAを解析すると、紀元前2000年ごろにとんでもなく強力な王が存在し、その遺伝子が各方面に色濃く残存していることがわかっている。その王様の名は歴史の闇の奥にかき消されてしまっているけれど、その影響はすさまじいものがあるんだ。
その遺伝的仮説は俺の与太話じゃない。現代の集団遺伝学(古代DNA研究)において、「Y染色体ハプログループ🔗(父系遺伝子)の爆発的な拡大」という形で完全に実証されているんだ。信じてくれ。ユーチューブのゆっくり解説動画とはわけが違うぞ。
「紀元前2000年ごろの強力な王(あるいは少数の特権的男性)」の遺伝子がユーラシア全域に色濃く残っているという現象は、遺伝学で「創始者効果🔗(ファウンダー効果)」、あるいは「父系のスターバースト(星形成)現象」と呼ばれているんだ。
スキタイのルーツである青銅器時代から鉄器時代のユーラシア遊牧民のDNA解析から明らかになった、この衝撃的な事実を君たちとみてみよう!
1. 「R1a」と「R1b」🔗という2人の強力な始祖の爆発
ユーラシアの遊牧民(スキタイの直接の祖先であるヤムナ文化🔗やアンドロノヴォ文化🔗など)のDNAを解析すると、男性のY染色体が驚くほど少数の特定の系統(ハプログループ R1a と R1b🔗)に収束するんだ。
それがどうした?なんかすごいことなのかって思うだろう。いや、マジですごいことなんだよ!
時は紀元前3000年〜紀元前2000年ごろ、ユーラシア草原地帯において、この遺伝子を持つ「きわめて少数の強力な男性(首長や王)」の血統が、数世代のうちに何百万人、何千万人へと爆発的に増殖しtんだ。このおっさんが決して鼠算的に増えるネズミ人間だったわけじゃないぞ。
つまり、この王様が様々な女性に子供を産ませ、その遺伝子がユーラシア中心部の各地に爆発的に広がったということを意味してるんだ。その名も知られていない男が人類に与えた影響はすさまじいものがある。聞いて驚け!見て笑え!
この血統が西へ向かったものが現代のヨーロッパ人のベース(特にR1bは西欧、R1aは東欧)となり、東へ向かったものがスキタイやサカ、そしてアジアの遊牧民のベース(R1a-Z93系統など)となったんだ。現代の男性でも、ヨーロッパから中央アジア、北インドに至るまで、驚くほど高い割合でこの「4000年前のたった一人の男」の遺伝子を受け継いでいるんだ!こんなことってあるのかよ!常識的に考えられないぜ。
2. なぜ「特定の王」の遺伝子だけが残ったのか?
トッドのいう「直系家族」や他の農耕社会では、人々は土地に縛られるため、一人の王がどれほど精力絶倫で毎晩とっかえひっかえ頑張っても、遺伝子の拡大には物理的な限界があるだろう。
しかし、紀元前2000年ごろの草原地帯には、それを可能にする3つのイノベーションがあったんだ!
- 馬の家畜化と騎馬・馬車の発明:この家畜化と騎馬移動、そして住居などを移動可能にする馬車の発明によって、機動力が桁違いに上がったわけだ。そのため、一人の強力な王(首長)が数千キロもの範囲を支配・移動できるようになったと考えられているんだ。
- 圧倒的な武力による他系統の排除:強力な王が率いる戦車軍団・騎馬集団が移動した先で、現地の先住民の男性を(戦争や社会的支配によって)排除し、自分たちの血統に置き換えていったということだ。彼らは家畜の扱いに習熟したプロフェッショナルだ。そして、人権なんて気の利いたものなんざ影も形もなかった当時、敗北した被支配民族の男は、よくて奴隷として家畜のように取引され、たいていは伝染病にかかった家畜を大量に殺戮するような感覚で、屠畜するようにぶっ殺しまくって、その辺に穴を掘って埋めちまったことだろう。頭や背中の皮を剥れて、武器に仕立てられた奴もごまんといたみたいだ。まったく、家畜も人間も変らないぜ。人間を何だと思っていやがるんだといいたくなるが、自分たち以外のニンゲンは、人でなしだと思うのは実は世界共通。それが分裂生成って奴だ。
- 「一人のボス」への権力集中(全体主義的プロトタイプ):遊牧民の社会は、有事の際に一人の強力なリーダーのもとに全員が結集するフラットな軍事組織だ。王の権威が絶対的であったため、王やその一族(エリート層)が多くの妻を娶り、子孫を爆発的に残すシステムが完成していました。 その代わり、下っ端は一緒独身だ。ひどいもんだ。けれど、それは今の日本社会でも似たようなもんだぜ。あんまり自分たちを安全地帯で穢れを知らない立場におかない方がいい。社会のシステムによって困窮を余儀なくさせられ、結婚なんて贅沢だ。子供を持つなど贅沢だとあきらめている人々がごまんといる社会と、そんなに変わらないんじゃないか?
3. スキタイに見られる「強固なエリート血統(内婚制)」
さらに、近年のスキタイのゲノム解析(2020年代の研究など)では、くるガンと呼ばれる大スキタイの王墓から出土したエリート層、つまり貴族や王族のDNAから、「非常に強い近親婚(内婚制)」の痕跡が見つかっているんだ。おそらく、父系を同じくするいとこ同士で結婚する平行いとこ婚🔗が主流だったのではないかと推測するよ。今のアラブ人なんかもそうなんだけどね。実際に、中央アジアの共同体家族は、今でもその家族システム内婚制共同体家族で、平行いとこ婚が奨励されているんだ。(平行いとこ婚と交叉いとこ婚🔗の違いにも着目してね!)
これは、彼らが「自分たちはあの偉大なる始祖(紀元前2000年ごろの名前の伝わらない偉大な王)の直系である」という血統の神聖性を守るため、非常に閉鎖的な王族ネットワークを維持していた証拠なんだ。一般の構成員はフラットで多民族的な「共同体」ですが、その頂点には圧倒的な権威を持つ「唯一の始祖の血」が君臨していたということだ。
結論:穆公が呼び覚ました「4000年前の王のシステム」
この遺伝子科学の事実は、これまで君たちと話し合ってきた内容とうまいこと接続されるんだ。
紀元前2000年ごろにユーラシア草原で「馬と武力」によって全方位に遺伝子を爆発させた「絶対的な強権トップ(王)と、その下でフラットに統合される集団」というOS。これこそが、トッドのいう「共同体家族」の原形であり、スキタイのDNAに刻まれた記憶だったわけだ。
中原の諸侯が「周の王室から枝分かれした(直系家族的な)ちっぽけな親戚関係」の中でグダグダと内輪揉めをしていたのに対し、秦の穆公が西戎から取り込んだのは、「紀元前2000年ごろにユーラシア全域を席巻した、あの圧倒的な強権・全体主義的統治のDNA」そのものだったというわけだ。
科学(DNA)と社会学(トッド)と歴史(秦の穆公)が、これほど美しく一本の線で繋がるとは、まさに知的スリルに満ちた展開だ。興奮で鼻の穴が広がっちまいそうだ(笑)
そんなこんなでまた明日。毎日こんなんじゃつかれちまうぜ。暇になったからいいけどね。
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