2026/07/22

POST#1915 ケアによって人々をつなぐトークンという構想 第1章

東京都中央区築地1丁目
先日、俺が息子を塾に送っていった帰り道、カミさんから電話があった。

近所に住む80代半ばT松さんのおじいさんが、奥さんの具合が悪いから市民病院まで車で乗せていったほしいって頼まれてってんだ。その時カミさんは、テレワークで仕事中だったから、俺がどれくらいで帰ってくるのか聞きたかったみたいだ。

結局、カミさんは仕事を中断して、市民病院までT松さん夫妻を乗せていった。

とはいえ、市民病院は家からほんの300メートルほど、家の前の道をまっすぐ行って信号を一つ渡ったところなんだが、足腰の弱った老人、それも運転免許を返納してしまった老夫婦にとっては、それがとても大変なことなんだ。

幸いT松さんのおばあさんは大事なかったようで、しばらくするとT松さんがやってきて、お礼にといってナスやピーマンを持ってきてくれた。

そんな気を使わなくてもいいのに。

しかし、無碍に贈与を受け取らないのは礼を失する。だからありがたく受け取っておいたんだ。どうやって帰ってきたのか気になっていたんで聞いてみたら、タクシーで帰ってきたんだそうだ。やれやれ、不滅の体力を誇る俺の親父の有り余るエネルギーを分けてやりたいよ。

俺は、人々がビットコインや株式投資に熱中するのは、各々のお好きになさればいいと思っている。ただ、自分の趣味じゃないだけだ。

けれど、皆がそれだけで、株価やビットコイン、ドル相場の上下に一喜一憂し、ギャンブル中毒者みたいな連中ばかりになってしまうのは、社会にとって決していいことなじゃいと確信している。

政府は、自らの役割を放棄したように、国民に自助や共助を求めている。

以前にも読者諸兄諸姉と話しあった通り、災害などが起これば手弁当で集まるボランティアが称揚されるが、それは本来行政がやるべきことではないかと俺は疑っている。そう、ここでも政府は自助、共助でを使い倒し、自衛隊の救援活動や行政の支援活動のサポートとして使い倒しているというスタンスだな。

この新自由主義が世界全体を覆いいつくした社会のなかで、資力のあるものは、より資本増強し、年々格差は拡大する一方だ。

かつて一億総中流といわれた我が国も、御多分に漏れず社会の格差は広がり、上層と下層の二分化が進行して、すっかりその面影もなく衰えている。政治は政治で左右の二極化が極端に進行し、経済格差の拡大から目をそらせている。

しかし、その現実から目を背けてはいけない。

かつてイケイケの営業部長だった人も、今は年老いて施設のベッドで横になっている。そして、人々は他人とのつながりを重荷と感じ、スマートフォンばかりにらんでいる。SNSだけでつながる広く浅い人間関係だ。

俺はこの状況が健全だとは全く思えないんだが、君はどうだい?

だから俺は、ケア労働、というかむしろケアを媒介としたトークンっていうのを考えているんだ。

顔の見える近隣のもの同士で、お互いに迷惑をかけ合ったことでこのトークンは流通する。そしてそのトークンを 1番最初に配られるのは、えー、老人、子供、シングルマザー、ギグワーカー、非課税世帯の住民、そういった社会的に困窮した人たちだ。

もちろん、無償で。

このアイデアは、自分でいうのも何だけど、既存の経済学や資本主義のロジックを完全にひっくり返す、極めて本質的なコペルニクス的転換だ

嘘だろうと思うだろう。けれど、おいおいこの構想の詳細を理解してもらえれば、その社会に与えるインパクトの大きさが感じられることだろう。

この国では、だれもかれもが「他人に迷惑をかけるな」と子供に教え諭す。それはもちろんそうだろう。けれど、その一方で、「他人に対して寛容で、困っている人を助けることを心掛けなさい」と教えているだろうか?

他人が困窮しているのを見て、自己責任だと突き放すのはたやすい。家に助けを求めてきた人に、扉を閉ざして知らんぷりするのもそれぞれの流儀だろう。

しかし、人間はいつ何時、自分が逆の立場になるかわからないんだぜ。

自分は財産が豊富にあるから、迷惑をかけることはない、なんでも金で解決できる!というのは容易い。以前に君たちにも話したことのある俺の父も、かつてはそうだった。低賃金で懸命に働く人々を見下していた。

傲慢で自分の暮らしが社会そのものに支えられていることに気づいていなかったんだ。

そして今は、すべての財産を失って、息子たちの援助で暮らしている。情けない話だが、それが実情なんだ。そんな話は珍しいのかどうか知らないけれど、急速に経済構造が変わってしまったこの30年で、一億総中流は崩壊し、実業に従事していた多くの人々が資産を失ったことだろう。

その一方で、金融や投資などで資産を築き上げた人々が台頭し、社会の構造が変わってしまったんだ。栄枯盛衰、天人五衰だ。

人間ってのは、必ず無力な赤ん坊として生まれ、病み、老いさらばえ、その果てに死ぬ。迷惑をかけずに生きることができるのは、せいぜい20歳から60歳くらいまでの間くらいだ。それも、よほどうまくやっての話だ。

等価交換で成り立つ、現代の経済は、「迷惑をかけないこと」や「自立すること」が美徳とされ、貸し借りをその都度ゼロに清算することが求められているんだ。わかるだろう。コンビニでツケは効かない。物を買う、サービスを受ける=購入する。そして対価を払う。それで等価交換の取引は終了だ。金の切れ目が縁の切れ目だ。そこに、人間的な感情や精神的な繋がりが生み出されることはないんだ。

それどころか、何もかもネットで注文し、玄関先に届けてもらうことができるような現代では、買い物一つとっても、誰とも接することなく可能だ。

しかし、それでは人間の関係性はスカスカになり、人と人とのつながりは断ち切られ、人々はますますネットを介してしか繋がらない孤独なモナド的な存在へと退行してしまうだろう。

それは、市民社会の死を意味するんじゃないか。

市民社会という土壌のないところには、民主主義という樹は育たない。

それはいずれ、監視資本主義かデジタル監視専制主義に飲み込まれてしまうことだろう。

君はそれでいいのだろうか?俺がここで提示したケアによって社会を流通するトークンは、金儲けを目的にするものじゃない。あくまで、自分たちの地域社会を耕し、地域社会に顔の見える人間の繋がりを生み出し、寛容で多様な生き方を担保するためのものなんだ。

俺が提案する「ケアを媒介とし、弱者を起点に社会へと流される、迷惑をかけ合うためのトークン」は、デヴィッド・グレーバー🔗の基盤的共産主義を地域にリビルドするための、「具体的かつ最強の社会実装ツール」になるだろう。自分でいうのもなんだけれど、面白いぜ。

今日はまだ、その全体像を示しつくすことはできない。なぜって、一度に見たことも聞いたこともない概念を提示されたとしたら、誰しも当惑し、理解できなくなってしまうからだ。

この仕組みがなぜ社会を根底から変える力を持つのか、まず、その衝撃力を整理してみよう。

1. 弱者が「富の起点」になる反転

資本主義では、資本を持つ強者が通貨を発行・支配し、弱者はそこから搾取される構造というのが定番だ。それが世界の定説だ。
しかし、俺の構想するのトークン経済では、老人、子ども、シングルマザー、ギグワーカー、障害を抱えた人といった「最もケアを必要とする人々(一般には弱者とされる人々)」が、市場を開拓する最初の「通貨発行権」を持つことになる。価値観の倒立した社会をもう一度180度倒立させ、螺旋を描くようにレイヤーを引き上げるためのものなんだ。

その本源的な価値の源泉は、今はいったん措くとしよう。おいおい話していった方が面白いからね。
彼らが「助けて欲しい」と隣人を頼り、迷惑をかけ、その感謝のしるしとしてトークンを支払うことで初めてこの経済が回り出すことになる。

つまり、彼らは社会の「お荷物」ではなく、「コミュニティの富ときずなを生み出す主役」へと180度反転するわけだ。

これは、社会から忘れ去られ、いないものとして不可視化されている人々を、地域社会に再実装する手立てでもあるのさ。

2. 「迷惑=つながりの太さ」という新しい価値観

「これだけやったから返せ」という等価交換は、関係を「清算する」、つまり±0にする行為そのものだ。これが等価交換に基づく、一般的な商取引だ。
対して、「迷惑をかけ合う」とは、お互いに心地よい「貸し借り(債務=負債)」をあえて残し続ける行為に他ならないんだ。

デヴィッド・グレーバー🔗も指摘するように、人間らしい社会とは「永遠に終わらない貸し借りの連鎖」のなかにこそあるんだ。

このトークンが流通すればするほど、地域の中に「あのおじいちゃんには、この前これでお世話になったから」「今度は私がこれを助けよう」という、お金で買えない強固な人間関係の「紐帯(ちゅうたい)」が太くなっていくというからくりを仕込んでいくことになるんだ

3. ケア労働を「ブルシット・ジョブ」から救い出す

現在の自民党・経団連的な資本主義では、人々の命を支える「ケア労働」が、家内労働の延長として評価される傾向にあり、最も低賃金に抑え込まれている。その一方で、中身のない「ブルシット・ジョブ🔗」つまりクソどうでもいい仕事に高い給料が払われている。誰も見ない書類を部下に作らせ、それにさっと目を通すだけの責任を取らない責任者が、いい金をもらうようにできているという話も、今まで何度も話し合ってきた内容だ。
それに対して、このトークン経済は、社会で最も価値ある「ケア」つまり『他者を気遣い、助け合うこと』そのものを媒介にすることで、既存の市場経済の手からケアの価値を奪還し、地域固有のインフラへと昇華させることを目的にしているんだ。

新自由主義経済の弊害が白日の下にさらされ、その限界が明らかになっている。

富は一部の人間のもとに流れ込み、滞留して社会全体を潤すこともない。

行きつく果ては『グローバルなテクノ封建制』か『デジタル監視専制国家』というディストピアだ。この状況のなかで、様々な人々が来るべき「ポスト資本主義」について語っている。しかし、いまだ俺たちの前に、それは実体のない蜃気楼のようなものでしかない。

この歯噛みしたくなるような状況の中、俺がひねり出したこのトークンの構想は、「ポスト資本主義」の理想を、地域社会という現場で動かすための具体的な「エンジン」そのものになる可能性を秘めている。

もしこのトークンを君の住むコミュニティで実験的にスタートさせるとしたら、「最初の迷惑(トークンが動く最初のキッカケ)」として、具体的にどんな小さな日常の助け合いから始めてみるだろう。

例えば、交通手段のない老人の買い物の付き添い、シングルマザーの子どもの見守り、或いはちょっとした電球交換や庭の草むしり?

そう、それはささいなことでいいんだよ。

子供が悩みごとを、近所のおじさんに相談したりとかでもいいだろう。あるいは子供の習い事のお迎えをママ友にお願いするってのでもいいかもしれない。近所の老人がゴミ出しを頼んだ時に受け取ることもありだろう。

だけど一つだけルールをここで提示しよう。

このトークンを受け取った人は、そのトークンを自分に渡してくれた人に戻すのはダメだったことだ。

自分が手助けした人にそのまま反対給付のようにお返ししてもらって、トークンを相手に差し戻してはいけないんだ。卓球じゃないんだから。二人の間でラリーをしても、二人の絆は深まるけれど、地域社会を縦横に織り上げるような網の目はできない。

あくまでも違う人に迷惑をかけて、そのお礼としてトークンを渡すっていうもんじゃないとダメだという設計にするんだ。

「もらった相手に直接返してはダメで、違う人に回していく」というルール。これこそが、この仕組みを「資本主義の等価交換(市場)」から完全に切り離し、「本物の共同体(コモンズ)」へと昇華させる決定的な鍵なんだ。

このルールがあるからこそ、これは「11の取引」ではなく、「地域全体をめぐる血流」になってゆくんだ。

そのまま相手に「返さない」ことが共同体を太くする

もし、もらった相手にすぐ返してしまったら、それはただの「物々交換」や「プライベートな貸し借り」で終わってしまう事だろう。関係はその2人の間で完結し、即時清算されてしまうんだ。

しかし、Aさんから受け取ったトークンを、次はBさんに迷惑をかけて渡す」というルールにすることで、以下のようなダイナミックな変化が地域に起きるんだ。

  1. 信頼のネットワークの無限の広がり
    トークンが人から人へとリレーされることで、地域の中に「見知らぬ誰かとも、このトークンを通じてつながっている」という社会的な信頼(ソーシャル・キャピタル)が網の目のように張り巡らされることになるんだ。
  2. 「ペイ・フォワード(恩送り)」のシステム化
    「お返し」ではなく「送り先を次に回す」という行為は、デヴィッド・グレーバー🔗が言う基盤的共産主義の本質なんだ。つまり、やるべきことを、やれる人がやるってことだ。ちょっと醤油取ってくれる?あいよ!ってのももっとも簡単な基盤的共産主義だ。ゴミ出しを手伝ってもらった老人が、そのトークンを隣に住むシングルマザーに渡し、そのシングルマザーが食器棚を動かすのに、近所に住むギグワーカーの男性に力を貸してもらい、トークンを渡す。あるいは子どもの悩みごとの相談に乗ったおじさんに子供からトークンが渡され、そのおじさんがまた飲みに行った帰りに友人に車の送迎を頼んで世話になり、お互い様でトークンを回していく。これを重ねていくことで、地域全体がひとつの大きな毛玉のような「ケアの循環体」になるんだ。
  3. 孤独の解消と「迷惑をかける権利」の保障
    現代社会では「他人に迷惑をかけてはいけない」という過剰な自責の念が、人々を孤独死や鬱病に追い込んでいる。あるいはまた、お互いにハラスメントだと訴え合う。だがしかし、このトークンを用いることで、システマティックに迷惑を容認するルールがあれば、「違う人に回せばいいのだから、安心して今この人に迷惑をかけよう」と思えるようになり、生きるのが圧倒的に楽になるんじゃないだろうか?悪い話じゃないだろう?

蟷螂の斧が、資本主義の壁に風穴を開ける

これは決して巨大な社会システムに対する「蟷螂の斧」つまり無力な抵抗ではないんだ。

なぜなら、自民党や経団連がいくら中央で増税しようが、労働者を搾取しようが、この地域トークンが回っているコミュニティ圏内だけは、彼らの支配や円(日本円)のロジックが1ミリも通用しない「解放区」になるからだ。

小さな日常の困りごと(ゴミ出し、子どもの相談、見守り)から始まるこの循環は、確実に人々の心と生活の土台を救ってゆくことになるだろう。

この着想の源には、古典的な人類学の知識、そう、マルセル・モース🔗贈与論🔗マリノフスキー🔗クラ貿易🔗のようなシステムを、現代の地域社会に実装するという構想があるんだ。ここでこの二つを引っ張り出してくることで、俺が構想している仕組みの歴史的・人類学的な風呂敷のでかさがなんとなくイメージできるんじゃないかな。

私たちが学校で習う経済学では「物々交換から貨幣が生まれた」と教えられますが、ありゃ嘘だ。俺が勝手に言ってるんじゃない。グレーバーもモースもマリノフスキーも、人類学的な見地からそれは大嘘だと見抜いていたんだ。そもそも、そんな都合よく、自分が欲しいものと相手が欲しいものがマッチングするだろうか?メルカリだって無理だろう。

敵対するもの同士が、川を挟んで相手に贈り物を置き、相手がそれを受け入れたら戦争ではなく交易が始まるという特殊なパターンもあったろうが、それはあくまで互いに未知の存在である場合がほとんどだ。この場合、戦闘に至るのは、戦争というモノがそもそも失敗した交換関係つまりマイナスの交換だということだ。

少し前の日本でも見られた相互の信用に基づく『ツケ』とか掛け売りの商習慣というのはある意味、相手を信用したうえであえて『負債』を残しておくことで、互いの関係を継続する側面もあったはずだ。

人類の本来の絆を作ってきたのは、市場による交換=取引(ディール)ではなく「贈与の循環」なんだ。

「クラ貿易」のロジックが地域を救う

マリノフスキーがトロブリアンド諸島🔗で発見した「クラ貿易🔗」は、まさに俺がこのトークンで提示した「もらった相手に返さず、別の人に回す」を何キロメートルもの海を越えて実践していた仕組みなんだ。少々の脱線を許してほしい。

  • 赤い貝の首飾りは時計回りに、白い貝の腕輪は反時計回りに、島から島へと「別の人」へギフトとして手渡され続けた。
  • これらは所有してため込むためのものではなく、「流動し続けること」でしか価値を持たない威信の象徴としての宝物とされていた。
  • この循環があるからこそ、異なる島々の住民は敵対せず、巨大な平和と信頼のネットワーク(紐帯)を維持できていたという貿易システムだ。

俺が考えている「ケアトークン」は、まさにこの「クラの貝殻」を現代の地域社会にリビルドするものなんだ。ゴミ出しの手伝いや子どもの見守りという「ケア」が、現代のクラとなって地域を回り、人々を太く結びつけていくことになるんだ。

資本主義の「等価交換」に対する、モース的な勝利

モースは『贈与論🔗』の中で、ギフトには「与える義務」「受け取る義務」「返す(次に回す)義務」の3つがあるとした。

資本主義の「売買(等価交換)」はその場で関係を清算して終わらせてしまうだけなんだけれど、モースの贈与や俺の考えているケアトークンは、「終わらないお返しの連鎖」を生み出すことで、人々の間に一生モノの強固な関係を編み上げていくんだ。

自民党や経団連がいくら「自己責任」や「効率性」を押し付け、人間を孤立した消費者にしようとしても、足元でモースやマリノフスキーの知恵が「ケアトークン」として実装されてしまえば、国家や市場の介入できない「強力な自治空間」が完成することだろう。これは人類が何万年もやってきた、最も強靭な生存戦略のバイパスだ。

そして、権力を持ち、人々をモナド化して支配しようと考えている者たちにとって、これほど強力な障碍はない。


もし、この「もらった相手には返さず、別の人に回すケアトークン」を、まずは俺や君の身の回りの数少ない人々や、小さなコミュニティで紙のチケットやスマートフォンのメモなどを使って、試験的に「ごっこ遊び」のような感覚でスタートさせてみるとしたら、最初に声をかけてみたい信頼できる仲間は思い浮かぶだろう?

しかし、今までの話だけでは、このトークンには何の魅力もない。お人よしの勲章に過ぎないんだ。この構想に息吹を吹き込むためには、実体経済とつながる通路が必要だ。実体経済との蝶番になるような、仕組みだ。

例えるならば、幻想の産物に過ぎないビットコインが、ドルと交換できることによって、価値の裏付けを得られるように。

そう、このトークンが何らかの形で円なら円と交換できるようなシステムを考えないといけない。そうすると行政を巻き込んでいくしかないわけよ。

そう、このトークンの構想が本当に独創的になるのはこれからだ。

次回、刮目して待て!

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